『地震が起きた』
1964年(昭和39年)6月16日13時1分、震度5の地震が新潟を襲った。
(出典:国土交通省北陸地方整備局『新潟地震の被害状況』http://www.hrr.mlit.go.jp/bosai/hokurikunobosai/jisin/jisin1.htm)
液状化現象により街は冠水し、県営川岸町アパートは大きく傾き、ほとんど横倒しになった棟もあった。昭和石油のガソリンタンクが引火したことをきっかけとし、周辺民家にも延焼した。
新潟大火から9年、復興を遂げてきた新潟市は大きな被害を受けた。
『新しい街づくりのために、若者たちのビジョン』
翌年の1965年(昭和40年)、街の状況を調査するため、新潟青年会議所メンバーにより「新潟地震被害状況調査実施」が行われた。
また、崩壊後の新潟市の将来の捉え方について、一般の若い青年からも募集しようと「新潟の未来像」座談会を開催、論文を募集した。
修練委員会により「新潟地震による経済動向調査」が行なわれた。
対象者は商工会議所1,378名 回答374名。
1966年(昭和41年)6月5日北陸信越地区協議会にて、「新潟地震による経済動向調査の実施」「新潟地震による損害状況、復興状況、生産販売、収益、金融の動向等の調査」により優秀ローカルJC賞と褒章を授与された。
また、全国の青年会議所から寄せられた新潟地震見舞金で県民会館「みちびきの像」を寄贈。
明るい街づくりのために寄与した。
『震災から社会開発計画へ』
1966年(昭和41年)未曾有の大震災を受けた後の新潟市を、明るく住みよい街にするために「明日の豊かな市民生活と新潟の為に」と題し社会開発計画アンケートが行われた。
資料収集に市の窓口や関係官庁の窓口を訪れ、64項目のアンケートを完成し、市民やロータリークラブ、ライオンズクラブ、青年会議所メンバー総勢2,858名にアンケートを行い、1,402名から回答を得た。
「新潟市にお住まいになっていちばん不安に思っていることは何でしょうか」に、3位「火災」4位「地震」と震災に対する市民の恐怖心がうかがえた。
一般市民や関係官庁からこの結果を早く知りたい旨の問い合わせが頻繁にあり、中間報告書発行の段階でNHK総合テレビにて「地方都市のビジョンを考える。新潟市の現実と未来」と題しこのアンケート結果を基として、市民の代表者、有識者、市長と共にその説明役として川崎了一副理事長が出演し討論番組が放送された。
『4つの提言書』
1967年(昭和42年)社会開発計画アンケートの結果を編集し、4つの提言書が作成された。
1.対岸貿易を強力に推進 (のちに、訪ソ経済親善使節団の訪問となる)
2.健全なる青少年の育成 (のちに、青年との対話、若者との広場づくりにつながる)
3.交通問題解決を含めた都市再開発の推進
4.生活環境の整備は私たちの手で
同年5月28日北陸信越地区協議会より社会開発計画の実行、市民協同体制の事業により褒章を授与された。
1968年(昭和43年)5月19日北陸信越地区協議会より社会開発計画の実行、4つの提言により褒章を授与された。
新潟地震をきっかけに市民・行政と共に考え、実行された社会開発計画が、現在の新潟市を形成する一助となった。