青少年の組織化
パルジョイ2

『きっかけは』

 9月3日は日本青年会議所の創立記念日(JCデー)。1972年(昭和47年)、日本青年会議所の小野正孝会頭は、「ヤングブルー計画」と銘打って、若者の持つ豊かなエネルギーを明るく豊かな社会を築くために活用し、青少年と共に学び、共に行動することによる青少年・地域社会・JCメンバーの開発を提唱し、この9月3日を日本青年会議所統一行事の日とした。新潟青年会議所(新谷稔理事長)は、この考えを具体化して若者とともにする行事を構想した。それが「パルジョイ作戦」である。

『パルジョイ作戦とは?』

 「パルジョイ」とは、「PAL」が「仲良し」で「JOY」が「楽しむ」であり、1972年(昭和47年)9月3日に行われた若者参加型の行事である。コンセプトは、「各層青少年を一堂に集め同世代間の交流を図ろう」「内容は計画の具体化の段階から街の青少年も参加させ彼等にその計画を推進させよう」「海浜公園で行う」とされた。そして、JCメンバーとともに、学生や働く若者達で作った「にいがたヤングプロジェクト」が手を携えて、「カラーチーム」「音楽チーム」「ドンドンチーム」の3つからなるプロジェクトチームが組織されて、9月3日のイベントが企画・準備された。

 当日は晴天にも恵まれ、アクションペインティング・ボディペインティング、若者バンドによるロックやフォークのコンサート、飲食コーナー・がらくた市・一坪店主などが開催され、海浜公園は延べ4500名近い若者が集まり、新潟日報は「ヤングの熱気とエネルギーに満ちあふれていた」と報じるなど、成功裡に終わった。

青年の組織化1

『続く若者イベント』

 翌1973年(昭和48年)には、「ビバヤングフェスティバル」と銘打って、一坪店主のほか、市内の青年サークルに活動発表の機会を与え、対話の広場で一つのテーマにつき参加者全員で話し合いをするという楽しい一日をもった。

 1974年(昭和48年)には、「ホリディ・イン・ニイガタ」と銘打ち、掘出し市、オリエンハイキング、一坪店主という行事が行われた。「オリエンハイキング」とは、オリエンテーリングとハイキングを合わせた企画であり、海浜公園をスタート・ゴールとして、市内を歩くことで新潟の街を見直し、参加者間の交流を深めることにつながった。

 1975年(昭和49年)には、「サマーエンド・フェスティバル」として、一坪屋台、がらくた市、腕相撲大会、お見合大会、すいか割大会、紙相撲大会、フォーク・ロックコンサートなどが行われ、海浜公園は若者や親子連れ約5000人でにぎわった。

ホリディイン新潟

『この指とまれ』

 1976年(昭和50年)からは、新潟まつりにおける新潟手作り広場「この指とまれ」と形を変えた。JCメンバーだけでなく若者も参加してまつりを盛り上げていこうという趣旨であった。県民会館前の広場で、金魚すくい・水鉄砲・紙芝居などのコーナー、飲食や民芸品等の約30店舗からなるテント村、ステージではロック・フォーク・歌謡曲等の演奏が行われ、ラジオの公開収録も行われた。約2万人もの来場者が訪れる大盛況であった。

 その後も、「この指とまれ」は、第3回に市民主導型の実行委員会方式への変更、第4回に海浜公園への移動、第6回は古町への移動など変遷を重ねながらも、1983年(昭和57年)まで若者の組織化の機会として継続されていったのである。

この指1